2011年3月11日(金)14時頃
仙台から酒田に到着。10日が東京出張だったこと、翌日には酒田駅前ワークショップがあり、仙台での物品調達が必要だったこともあり、酒田入りは午後になった。研究室でメールチェックを開始。
2011年3月11日(金)14時46分 東北関東大震災発生
電気ポットでコーヒーを飲むためのお湯を沸かし終わった頃に、研究室を大きな揺れが襲った。砂地に建つ大学では9日の地震も相当な揺れだったが、それよりも明らかに大きく、直感的に仙台が大変なことになっていると察する。5分ほどにわたる長い揺れの間、研究室のファイルボックスがいくつか落ち、共同研究室に出たところで停電、廊下に出ると数名の教員も長く大きな揺れに心配している様子。ガラスに近付いていた教員に声を掛け、ガラスから離れるようアドバイスをした。
2011年3月11日(金)14時46分から15分ほど
研究室に戻り、電気が通じないことを確認。こういう時は電話が通じないことはわかり切っているので、震源がどこかを確認する前に、妻の携帯にメールを打った。その後、PHSを持って再び廊下に出て、ホールのホワイエを経由して屋外から母に電話し、弟にメールを入れるが、いずれもうまくつながらず。その間、他の教員から仙台での地震であること、大津波警報が出て、津波に呑み込まれている集落が出ていることを知らされる。確かこの頃に、最初のツイート「酒田立ってられなかったけど無事。雫石は?仙台は?」
2011年3月11日(金)15時〜15時30分
雫石にいる弟の無事をTwitterで確認。大騒ぎしていなかったので、父も無事だと推測。しばらくしてパート先の母に電話がつながる。仙台の情報を収集するようにお願いして電話を切る。この頃に館内放送で「停電中、東北電力に問合せ中」のアナウンス。
翌日のワークショップの中止を懇願するために、研究室に市役所の電話番号を取りに行き、PHSから電話を掛けるも当然つながらず。大学の前を東北電力の車両が通過した。
ゼミ生の安否を確認するためには、現在営業中の酒田まちなかサロン[Roof]に出向くのが確実だと思い、そのタイミングをうかがっていたが、館内放送では「東北電力から復旧見込みなしの連絡があった」との放送、そして「大学を16時に閉鎖します」の報層が立て続けにあり、市役所、サロン経由で仙台に向かうことを決心する。
2011年3月11日(金)15時30分〜16時
大学の南駐車場から出ると、信号が消灯、次の信号も消灯。交差点ではそれぞれがどうやって譲り合えばいいのか、手探りの様子。酒田市役所までは何とか10分程度で到着。人が溢れている市役所のロビーの奥の階段を3階まで駆け上がり、都市計画課を探す。薄暗く、どこが都市計画課なのかもわからず、すれ違うヘルメットと作業着姿の人たちも知合いの職員さんかどうかもわからない。ふと奥のほうから課長さんに声を掛けられ、奥の会議テーブルに通されながら「地震が大変ですね」と言われたか、それを遮ったか、「その地震の件で、お願いがあってまいりました」と伝える。わずか30秒ほど、どこまで礼を尽くせたかわからないが、理解していただけたと感じ、市役所を飛び出す。交差点では信号が点いていないのに猛加速で走り抜けるトラックもいた。
酒田まちなかサロン[Roof]の駐車場には学生の車が3台あり、残りのスペースにエンジンをかけたまま車を停め、店内へ。電気もない寒い中、5人が待機中。事の重大さをつかんでいないのか、仕入れのことを相談される。15名全員の安否確認を相互ですること、電気復旧の見込みがないから相互に助け合って一夜を乗り越えること、誰も孤立することがないようにすること、[Roof]は原則営業中止すること(ただし物資が不足する人のために場合によっては商品を提供すること)、確かそんなことを伝え、仙台に向かうことを許してもらった。
2011年3月11日(金)16時〜17時30分
ラジオは仙台の街中の様子を報じてくれない。津波の話ばかりだ。妻の自宅は海岸から数キロ離れているので、津波は大丈夫だろうと思い、とにかく仙台の街中の情報を欲している中、妻のツイートを見つけ、一安心する。ほぼ同時に、母からも妻の無事を報告するメール。ちょうど、混乱する酒田市街地を抜け出した頃のこと。
次に考えたのは必要な物資をどこで調達するか。どこでガソリンを満タンにできるか。停電している市内は諦め、酒田市郊外の平田を経由。食料と懐中電灯を買おうと思ったが、すべての店舗がすでに停電のため営業を終了しており、内陸のほうが物資を調達できるかも(=電気が通じているかも)と思い、そのまま車を走らせる。妻からは会社から帰宅するとのメール。
戸沢村古口では信号が点灯していたので、2km先のコンビニで買い物をすることを決心する。駐車場には溢れんばかりの車で、すでに売切れを覚悟の上だったが、たくさんの食料が残っていた。弁当に手を出してみたが、現実に立ち戻り、3日分のパンと飲み物をかごに入れ、会計。レジのおばちゃんに「このあたりは大丈夫だったんですか?」と聞くと、「揺れたよ」と。「電気は通っているんですね。酒田はダメなんですよ」「この先の新庄もダメらしいですよ」「これから仙台に向かうんです」「仙台空港が津波で呑み込まれたって」「!」焦って車に向かったが、荷物を積んでいる間に少し冷静になり、懐中電灯用の乾電池を購入するために店内へ。定価の乾電池はこんなに高いものかと思いながら、単1電池4本(在庫すべて)を購入。
新庄はやはり停電。内陸での物資調達は無理だと確信。緊急車両が南からやってきて、東へと向かう。鳴子、大崎方面に向かうのだろうか。だんだん日が暮れる中、雪がひどくなる。
2011年3月11日(金)17時30分〜20時
降りしきる雪と真っ暗な道路で、どこを走っているのかがほとんどわからない。緊急車両が北へ北へと向かう。何十台とすれ違ったのだろう。道の駅むらやまで凍ったワイパーから雪を払うと、周りには仙台ナンバーが多数。みんな携帯で情報を得ようとしている。何人かは動かない自動販売機を見つめている。
関山峠が寸断していないか心配だったが、対向車は多く、きっと大丈夫だろうと思い、車を県境に向けて走らせる。ノロノロ運転の県境を越えると、仙台から山形に避難する車のほうが圧倒的に多くなる。慣れない雪道で路肩にスタックさせてしまう車も多数。
作並温泉は当然真っ暗。遠方から来た観光バスが何台も山形方面に走り抜けて行く。広瀬体育館のあたりから徒歩の姿。これが帰宅難民というものか。仙台都心から約10kmの地点。この頃、タイムラインは「星空がきれい」で埋まっている。確か高1の頃だったか、ペルセウス座流星群を仙台都心でも見ようという市民運動的なアクションがあり、街中のネオンライトが消え、きれいな星空が見えた夜があった。あの時の空にとても似ていた。
愛子、落合、折立と帰宅難民の姿は多くなる。457号線経由で泉方面に抜けようとする車で大渋滞。市バスもすし詰め状態だが、何時間乗っているんだろうと心配になる。
ちょうど20時、自宅に到着。妻のか細い声が家の中から聞こえ、安心する。自宅から出ないように伝えたメールも何もかも、届いていなかったことを知る。
2011年3月11日(金)20時〜
真っ暗な家の中、懐中電灯を見つけられず、車から懐中電灯を降ろす。自宅前には路頭に迷う学生がおり、避難所に向かうことを勧める。
残りの食料を確認、キャンドルを探し出し着火、キャンドル用のランタンも見つけ
懐中電灯と併せて明かりは確保した。幸い、水は通じている。深夜電力で沸かしていたお湯も残っている。手回し式のラジオはあるが、情報が断片的にしか伝わらない。しかも荒浜の津波被災の情報は、我が家にとって事態の深刻さを突きつけるものだったが、それ以降妻の実家とも連絡が取れないまま、夜を明かすことになる。PHSは停電のためか圏外。
単2電池8本が必要なラジカセを見つけるが、単2の在庫は5本。次に中学生の頃に買ってもらったチューナー付ウォークマンを奥底から発見。単3外付けキットを付けて電池を入れるも、動かなかった。中に入れっぱなしのリチウム電池が溶け出しているせいか。
23時頃になって、妻の実家が津波で浸水したが無事だったこと、飼い猫3匹が津波で流されたことが1枚の悲惨な写真とともに東京にいる妻の妹から伝わった。庭が汚泥や瓦礫で満たされ、車も水に浸かっている。絶え間なく余震が来るが、気にせず寝ることにする。
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